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白神山地/白 神 岳 (1,231.9m) <白神岳の歴史・伝承> 日本の山は、古来から信仰の対象として、あるいは、修験場として開山されたのが多く、著名な山ほどその度合が強い。さて、白神岳はいつのころから登られ、また、信仰されるようになっただろうか。 浜つたひ小峯大峯雲ふかく 徳川時代、民族研究家の旅の文人として知られた菅江真澄が、当地を通った際に詠んだ歌であり、また、享和元年(1801年)11月の紀行文に「…弓手の方に高き磯山どもの多かるに、なお秀でたるは白髪か岳となん」(雪乃道奥、雪の出羽路)また、出羽の国男鹿島の白神不動尊に関して、「紀の国の白神の磯の名をはしめ、しら神といふ名は陸奥の松前の白神か崎てふあら潮あり、津軽の深浦に近く白神か岳の名あり。しら神とは白鳥をさして、日本武尊をも雷神をも祭り、はたしら山をまつりて菊理姫をも斉いたり。しら神とは繭の神をも斉ひまつれり。白神といふ処の名いと多し。」(小鹿の鈴風)と記されている。これが古文献としては唯一のものである。
<白神岳の由来> 山の名称は、山そのものの容姿や人の名、あるいは、土地の名などによって命名されたほか、山の残雪の形や反対に消えた部分の形など、自然現象から起ったものも少なくない。白神岳の名称は、いずれの由来によるものだろうか。地元の古老の話では、二つの説が伝わっていると言う。「白神川の上流は非常な立ち川(勾配が急な川という意味)で、雪どけ水が流れるころは、真白い水が非常な急流をなして流れている。したがって、白い川の上にある山"白神山"という名が出たのであろう」という説、また、ひとつは、「むかし、白髪の老人が、白神山の中腹に住んでいるのをよく見かけた人がいる。この翁は、八森の茂浦の五重塔を、鉈と玄翁だけで建てたほどのすぐれた大工であったが、後に白神山中でその生涯を終えた。おそらく、この老人は左甚五郎であったのであろう」という説である。 しかし、ここに「…出で遠かたをむかへば、正子のあたりて見ゆるは船が沢の兎雪、亥の方に見ヘたる字が岳は、消へ残る雪の形の上文字をなせは、かれをもて白上山の名におふことにや。世のなりはひのよしあし、或田畑のときの占ひに富士の布雪、農男、釜臥山の牡丹、岩木山ののほり竜、くたり竜、耕田の岳の蟹子のはさみ、種蒔法師、此舟が沢山の兎雪、あるは上文宇山、又白上、あるは白神といふもおなしためし也。これをためしに早苗とるころとて、田うちぬ心いそきし。浦の海士は、はや鰯の来べきころはひと漁のまふけせせり」(真澄、文化4年記・雄賀良能多奇)とあって、昔から白神岳の残雪の形が、山麓の人にとっては、だれでもが心得る仕事の手順に結びついた自然暦のひとつともなっていたのである。そして、田畑をつくるものには、耕作の時期を教え、漁師には魚の回遊を知らせてくれるように、年にただ一度だけしかめぐって来ない、生活上必須の行為を教えてくれる神のようなものであったことは確かであろう。したがって、"白い神の山"と呼ばれるようになったものではないだろうか。 このほかでは、「むかし、沖合いを航行して進路を失った時、白神権現を念ずると、白旗を携えた神様が現われて、針路をお示しになって船人をたすけてくれたという言い伝えが残っている」(岩崎探勝案内)と言うのもある。 <白神岳の民話> 白神岳についての民話は、地元で語り伝えられたものがあったが、いずれも断片的で、完全なストーリーを話せる古老は存在しなかった。しかし、大要は次のようである。むかし、年ごろの姉妹がおって、姉様を花姫、妹を初姫と呼んでいた。姉様は妹より器量が悪かったが、おっとりした気性であった。妹は姉と違って小賢しい娘と言われていたが、二人はいつも仲が良かった。 ある日、母親が二人を呼んで言うには、「岩木と白神から嫁にくれときているが、私にはどちらがどうとも言えないので、今晩二人の枕元にそれぞれつぼみのついた花を置いておくから、明日の朝になって、咲いていた方が高い山へ行くがいい。』といい聞かせた。 翌朝、妹が早く目をさまして自分の枕元を見たら、まだつぼみのままであったが、姉様の方は花が咲いていたので、とり替えて高い岩木山へ行ってしまった。姉様はあとで起きたところ妹がおらす、花がつぼみなのを見て、低い白神岳へ嫁いだ。 しかし、後で妹の行為を知ったので、二人の仲は悪くなり、岩木山と白神岳はお互いに背を向けるようになった。また、同性を嫌悪したので、女性は登ることができなかった。白神岳に女性が登山したのは戦後のことである。いつ頃、だれが最初に登山したかは、つまびらかではない。(山頂ポストに残された登山者の記録) 「白神嶽 第2集」 能代山の会/1968年6月発行に記載 <白山とのつながり> 白神岳。この山は私の青春時代の山を象徴する存在だった。昭和30〜40年代は春の柔らかい日差しを浴びて…、汗水を流した夏にも、また、爽やかな心地よい秋風の日も…、そして、芯まで凍える寒風とガスの厳冬にも、幾たびも幾たびも登った山だった。かつては山駈け(信仰登山)の風習もあったが、日露戦争後には途絶えた、と伝えられていたので、少しでも白神岳の名前を広めようと、及ぶ限りのことをした時期もあった。そのひとつとして、由来を調べたことも今は遠い過去のこととなったが、どうしても頭から離れないことがあって、そのことにずーと「こだわって」きていた。 そのこととは、山岳信仰では奥宮に対し里宮がなければならないことから、黒崎の熊野神社や大間越の稲荷神社とのつながりであった。熊野神社に伝わる諸神社微細調べ由緒書上帳(安政2乙卯年記す―1855年)によれば、「祭りの定例日なく、且つ、何時から祭ったのか、また、祭り神は何なるやも不明である。社地の大きさ、その頃は鳥居だけ建立した。」とあった。 また、大間越では日露戦争のころまでは、毎年旧の8月15日に村の若い衆が一週間も前より稲荷神社に泊まって精進し、津梅川でミソギをしてから、笛、太鼓を打ち鳴らしながら台地まで登り、そこから山駈けをして、五穀豊穣を祈願、下山後は台地で笛、太鼓の鳴りもので酒盛した、と言われていた。そして、白神の神体は大山祇神と伊邪那岐、伊邪那美の両神であると伝えられている、と言うものであった。 このほか、「白神岳の頂上には白神権現の奥の院あり、毎年旧8月15日は遠近の信者が『お山駈け』と称し、笛、太鼓で参詣する。」(岩崎探勝案内、昭和18年刊)もあった。 地元に残る古文書や文献がこれ以外に見あたらないことから、後は神様の本家筋を調べなければと、文献をあさって見たこともあった。 "浜つたひ小峯大峯雲ふかく その中の一節、「しら山をまつりて菊理姫をも斉いたり」とあるのは、日本三大山岳信仰のメッカのひとつである加賀の白山のご神体そのものであって、それとの繋がりをもつた山である、と推測したものだった。 白山(古くは「しらやまさん」と称していた)をお祭りする神社は、全国で2,717社もあって、本宮は石川県鶴来町の白山比盗_社であることも分かり、菊理媛神(くくりひめのかみ or きくりひめのかみ―白山比淘蜷_・妙理大権現)を主祭神に、伊邪那岐神・伊邪那美神の3柱を祭り、また、白山は御前峰の奥宮には菊理媛命を、大汝峰の大汝神社には大己貴神(大国主命)を、別山の別山神社には白山の地主神である大山祇神を祭っているなど、徐々に分かってきた。 そして、本宮の末社としては、加賀の不動天・弓の原・志津原・明神・佐那武社の他、能登の高峅(珠洲市三崎町)、越後の能生白山神社(新潟県能生町)などが知られている、と言うが、これらはいずれも、加賀から能登・越後にかけての日本海沿岸地域における白山信仰の地域的拠点になったとされ、津軽の果てでも北前船の船乗りたちによって分社されて、信仰されたと想像できた。 そんな経緯があって、いつの日か白神岳の本家にはお詣りしなければ、とこだわりを持ったまま40有余年の年月が過ぎてきた。今回はからずも会報3号に載った武田さんの誘いに便乗して、念願の本家詣でができたことは、長年こだわってきたひとつが解消されたかな?、と今は安堵している。 山友会「会報 No4」/2001年9月発行に記載 <白神岳登山コース> 白神岳 1958年以降、この山塊が能代山の会によって広く紹介され、黒崎コースの登山道や道標が整備されて来ましたが、それまでは登山の対象から外れた山でした。60年代の前半でも年間100人足らずの登山者─山頂ポストに残された登山者日誌より─を数えるだけで、まだまだ日本海にひっそりと張りついた未知の山でした。その後、能代市民を対象にした登山会を重ね、徐々に訪れる登山者も多くなってきたが、それでもまだ300人前後の年が続いていました。63年7月に山頂から大峰岳、崩山までの稜線づたいに、十二湖青池の上にでる縦走コースが、また、65年8月には山頂から向白神岳への吊り尾根を通って一ッ森に至る登山道が、深浦営林署の手によって完成したことにより、ようやく白神山塊が黎明期を迎えました。 白神岳は世界遺産の登録以来、海抜0メートルからの登山と、ブナの原生林を眼下に見えることで全国的に脚光を浴びて、多いときは一日500人も登るようになったことは、黎明期の当時を知るものにとっては正に驚きである。 一般ルートの黒崎コースは、白神岳登山口駅(旧陸奥黒崎駅)東側を通る国道101号線に建つ白神岳登山口の標識が、山へのスタート地点となる。マイカーならここから海岸段丘の白神平につく日野林道終点の駐車場が登山基地だ。(駐車場には通信衛星の公衆電話を備えた広場休憩所が、02年に完成した)
40分ほど歩いて蟶山コースと旧道・二股コースの分岐点。白神川の二股出合の崩壊が激しいので、1983年にこのコースを廃止し、新たに蟶山コースに変えた。道は蟶山コースの尾根道へと進む。40分ほどで上木戸沢─このコース最後の水場である。さらに40分ほど登ると蟶山(841m)への分岐点。ここから蟶山までは5分ほどだが、山頂は樹林の中に看板があるのみ。蟶山分岐からは主稜線から張りだしている尾根筋の直登となる。主稜線までは1時間半のコースタイム。頂上へ続く主稜線上は世界遺産登録のコアーゾーンの線上を歩くことになり、ここで十二湖縦走コースと合流し山頂まで20分ほど。山頂近くなると最初に見えるのがログハウス風のトイレであり、避難小屋はその先にある。頂上に着いて真先きに目にとぴこんでくるのが、岩木山の鋭い山容である。八甲田連峰の眺望も美しい。つづいて向白神の連山、眼下の真瀬岳、遠くは森吉山、太平山、鳥海山の雄峰。能代平野を白く蛇行する米代川、ゆるやかにカーブを描く海岸線の彼方にかすむ八郎潟。浮かぶように並ぶ男鹿半島、寒風山。青々とした日本海の中に奇岩の点在する岩崎の海岸、ぐっと突きでたへナシ岬など360度のすばらしい大パノラマである。 なお、1985年に建設された白神岳避難小屋は、総ヒバ材の三層造り、広さ12平方メートルで収容人員約30名。 コースタイム/登山道延長約6.5km、登山時間 約4時間白神岳登山口(深浦町黒崎)⇒0:40⇒白神平駐車場⇒0:40⇒旧道分岐⇒0:40⇒上木戸沢(最後の水場)⇒0:40⇒蟶山分岐⇒1:30⇒稜線(十二湖コース分岐)⇒0:20⇒白神岳山頂 |